我が愛機達を世に送り出したコンストラクターの歴史

※ 我が愛機達とPIAGGIO VESPA PX200 FLGILERA DNA180DERBI SENDA DRD EDITION SM50+28.5APRILIA
  RS50 TETSUYA HARADA REPLICAMOTO GUZZI V40 TARGAVOLVO 940 TACK ESTATEの6台を指します。
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★1:PIAGGIO
(ピアジオ)
 PIAGGIOの創業は1884年。イタリアのリグーリア州ジェノバ県ジェノバ市セストリポネンテにてリナールド・ピアジオ
船舶用のパーメーカーとして設立した。その後鉄客車、トラック車体・エンジン、航機(WWUでは軍用機)の生産をすイタリアでも有数の企業に成長。 WWUの敗により一度は生産を停止した。創業の息子エンリコ・ピアジオが 経営を引き継ぎ、1946年に「VESPA」を生産開始し復活する。
 
左・VESPAのプロトタイプ MP5/右・VESPA最初の市販車 VESPA 98
  よく勘違いされているが、VESPAはメーカー名ではなく、PIAGGIO社中のブランド名の一つである(よーするに、トヨタがPIAGGIOであり、カローラがVESPAみたいな物です)。映画ローマの休日に登場し、映画と共に世界人々の記憶に残るスクーターとなっ。私の世代では、松田優作が探偵物でVESPAを乗り回すシーンも外ないところ。
  
  VESPAで復活したPIAGGIOは、その後スクーターを中心にマリンエンジン、四輪、航空機の生産等を行っていたが、1964年イタリア最大の自動車企業、FIAT下へ入る。FIATグループの中において二輪部門の中心となり、現在PIAGGIOはヨーロッパにおスクーター部門ではNo.1のコンストラクターであり、傘下にAPRILIA(イタリア)、GILERA(イタリア)、MOTO GUZZI(イタリア)、LIGIER(イタリア)、DERBI (スペイン)を従えた一大グループ企業に成長した。PIAGGIO単体見れば只のスクーターメーカーに見えるかもしれないが、グループ傘下の車種を見渡せば二輪関係フルレンジ・フルラインナップとなり、オートバイ産業としてはヨーロッパ最大、世界第4位の規模を誇る。
 
またレース部門では、2008年MOTO GPにおいて傘下GILERAの#58マルコ・シモンチェリがGP250、DERBIの#63マイク・ディ・メッリオがGP125チャンピオンになり、Wタイトルを取る快挙!2009年は、FIM S1でAPRILIAの#101ティエリー・ヴァン・デン・ボッシュがタイトルを奪取。2010年は、WSCでAPRILIAの#3マックス・ビ アッジがコンストラクターズチャンピオンを勝ち取る 等、世界のモータースポーツで参戦していないトップカテゴリーのMOTO GPクラスを除き、PIAGGIOグループは各種レースで実は勝ちくっているのである

 我が愛機は1999年型PIAGGIO VESPA PX200 FL
 (PXは昔ながらの手動クラッチによるグリップチェンジ式4速ミッションで走る、オートマチックではないビッグ・スクーター
である。但しビッグスクーターとは言え、見目には街乗り用50ccよりほんのし大きいか?位にしか見えないスーターな為(スモールボディーVESPAと変わらない様に見えるが際には1.5 回り程大きい)、高速道路を走っていると原付に間違われる事がしばしばある。又はビックリされる)
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★2:GILERA(ジレラ)
 GILERAはイタリアにて、ジュゼッペ・ジレラが1909年3月22日ミラノにワークショップを創業。同年よりGILERA VT317を販売した、欧州最古の二輪車メーカーである(世界初の二輪車メーカーは1903年創業のハーレ・ダビッドソン)。その後、ロンバルディア州モツァ・エ・ブリアンツァ県アルコレ市に工場を建て、本拠地とする。2009年をもって100周を迎えた。
 
左・欧州最古の市販車二輪 1909年製 GILERA VT317/右・イタリアの記念切手になっているVT317
 WWU後、500cc・350ccクラスのWGPにいて4度のコンストラクターズチャンピオン、6人の年間チャンオンライダーを輩出しほぼ敵無しの状態だったが、1957年を後にアグスタ伯爵の政治的圧力によりAGUSTA以外のイタリアメーカーがWGPから撤退を余儀なくされてしまう。 レースでブランドイメージを保っていたGILERAは急速に勢いを無くし、ジュゼッペの死後息子が病弱だった事もあり企業を維持する事を断念し、1969年にPIAGGIOの傘下へ入る。その後はPIAGGIOのスポーツブランドとして、主に低排気量のスポーツスクーターを中心に製造する。
 1992年にWGPへ復活。2001年には125cc部門で年間
チャンピオンライダー(#54 マヌエル・ポジアーリ)を輩出し、往年のレーシングメーカーが蘇る。そして2008年、250cc部門においてマルコ・シモンチェリが Mitis Gileraの#58を駆り年間6勝をあげライダースタイトルを取り、100周年に花を添えた
 
1957年レース撤退直前、最後のWGPレーシング・マシーン(コンストラ クターズチャンピオン・マシーン) SATURNO500

 

 
2002年WGP125マヌエル ポジアーリ(2001年間タイトル獲得により#54から栄光の #1に)

 

 
左・2008年WGP250マルコ シモンチェリ(祝#58年間タイトル獲得!)/右・ロベルト ロカテリ

 
2009年WGP250 100周年記念カラー

 
2011.10.23 サン・カルロ・ホンダ・グレッシーニチームよりMOTO GPマレーシア
に参戦していた
マルコ シモンチェリ選手が事故死されてしまいました。
マルコ シモンチェリ選手に哀悼の意を表すと共に、同選手のご冥福を
心よりお祈りいたします。


 
我が愛機は2002年型GILERA DNA180
 (DNAは車体はバイク、エンジンがスクーター(GILERA RUNNER VXR180用)と言う世界でも珍しい形態の、オートマチック無段階変速ストリートファイター
である。要するにSUZUKI ストリートマジック+GSX250F ACROSS÷2である。何故この組み合わせかと言うと、通常のガソリンタンク部がダミーであり、ヘルメット収納スペースだからである。DNA180のコセプトは現在、同じPIAGGIO下のAPRILIA MANA850に受け継がれている(本来はGILERA FERRO用に新規開発したオートバイ用オートマチックエンジンをアプリリアが作った車体に載せたバイク)。車体は50cc、125cc、180cc共に共通であり、本国での役125ccとしての車格ボディー与えられている。しかし車体は横にリュームがあり、履くタイヤも発売時の250ccスクーターより太いタイヤ純正指定されていたので、見た目にワンランク上(250ccクラス)バイクに見える)
 インプレッションレポートはこち



★3:DERBI(デルビ)
 DERBIは1922
Simón Rabasa i Singlaがスペインのバルセロナにて、自転車修理工場として創業。1944年Bicicletas Rabasと言う有限会社を立ち上げ、1946年からエンジン付き二輪(モペット)の生産を始める。

DERBI初の市販二輪 DERBI SRS50
 1960年代から125cc以下クラスのWGPへ積極的に参加し、8度のコストラクターズチャンピン、11人の年間チャンピオンライダーを輩出。2001年にPIAGGIOの下に入る。1999〜2002年には日本人の宇井 陽一選手がDERBIのワークスライダーとして、125ccにて4年間で11勝と活躍した。そして2008年、125cc部門においてマイク・ディ・メッリオがAJO Motorsportの#63を駆り年間4勝をあげ、ライダースタイトルを獲得した。
 
因みにメーカー名のDERBIとは「Derivado de Bicicleta」の略であり、直訳すると「自転車からの派生」である。
   
左・中・1999年/右・2000年 WGP125宇井 陽一

 

 
2008年WGP125マイク ディ メッリオ(祝#63年間タイトル獲得!)

 我が愛
は2005年型DERBI SENDA DRD EDITION SM50+28.5
 (やたらと長い車名だかこれでも随分省略していて、DRDとはDERBI RACING DEVELOPMENTの略。よって
DRD EDITIONとは直訳すると、デルビ社レース用開発版である。SMはSUPEREMOTARDの略。SUPEREMOTARDとはオフロード車に17インチのオンロード用タイヤを履かせたON・OFF両刀のスポーツバイクのである。SUPEREMOTARDはフランスが発祥で、同義としてアメカ発祥のSUPEREMOTO、SUPEREBIKERSが有る。日本では最初TERMINATORSと呼ばれた。現在 は全世界でSUPEREMOTOに統一されつつある。と言う訳で略さないデルビ センダ デルビレーシングディベロップメント エディション スーパーモタード50と言う、とてつもなく長ったらしい前になる。あまりに長いので、日本の輸入代理店(成川商会)でこいつの名称を何と、「SM DRD 50」とメッチャ省略した名前にして売ってます。(苦笑)ちなみに+28.5とは、イタリアのマロッシ製シリンダー排気量を50cc→78.5ccへボアアップしてるからだったりするが、そもそも車体は国産200ccクラスと変わらないフルサイズ原付であ。写真の通り、僕股下と比べて数段高いシート高を見れば、その大きが分かるでしょ?尚、車名について、真っ赤に全塗しているため見た目に合わせてノーマル車風に名っ ていますが、実のところ「本当の車名」をDERBI SENDA SM DRD EDITION BLACK 2005 E2と言う、元は「真っ黒」な車体の限定車でした。2005 E2とは、2004年にBLACK EDITIONと言うエボリューションモデルがあったので、これは2005年のエボリューション2ですよと言う意味です)
 インプレッションレポートはこち



★4:APRILIA(アプリリア)
 APRILIAはWWU直後(1945年か1946年?)、カバリエ・アルベト・ ベッジオがイタリアのヴェネト州ヴェネツィア県ノアーレ市に転車生産工場設立。APRILIAの社名は、カバリエが当時れていたイタリアの自動車メーカーLANCIAが造するLANCIA APRILIAから取ったと言われている。1968年に息子のイバノ・ベッジオが会社を引き継ぎ、50ccのモペットを製造する。
 
APRILIA初のモペット 左・DANIELA/右・COLIBRI
 1970年、モトクロッサーのスカラベオを発売。ここから70年代以降、モトクロッサーでのレースを通じて会社の知名度が上がっていく。因みにスカラベオとう車名は、現在でも同社のスクーターにその名を残している。
 ロードレースでは、1977年にイタリア選手権にて125ccと250ccで初タイトルを獲得。1985年からWGP250に参戦開始
。1987年にロス・レジアーニの駆るAF1が初優勝。1992年に125ccでレッサンドロ・グラミーニがWGPタイトルを獲得。 1994〜1996年、マックス・ ビアッジが、250ccで3年連続タイトルを獲得する。また、1994年に125ccで日本人ライダー・坂田 和人がタイトル奪取。1997年からは日本人イダー・原田 哲也が250ccに乗り、1997・1998年の年間ランキング3位を獲得。原田は2001年までエースライダーを務めた(2001年2位)。また原田はAPRILIA在籍中1999・2000の2年は500ccクラスエントリー(1999年10 位、2000年16位)。APRILIA在籍中トータルで11勝している。昨今でも2006〜2007年250ccでホルヘ・ロレンソが2年連続タイトル。2010年、WSCにてAPRILIAに復帰しマックス・ビアッジが、#3を駆ってタイトルを取っている。2009年には 日本人ライダーの中野 真矢も、#56でビアッジのセカンドライダーを務めていた。またFIM S1(スーパーモタードのワールドチャンピオンシップ)では、2009年にティエリー・ヴァン・デン・ボッシュがタイトルを奪取した。
 1990年代、MOTO GUZZIやRAVERDAを買収し事業拡大を図るも経営戦略を失敗。2004年、財政難から同じイタリアのPIAGGIOグループ傘下に入る
。PIAGGIOグルーの中では唯一フルラインナップを形成し、1,000cc〜50ccまでのバイク、スクーターを製造している
 
右・ロリス レジアーニ/左・アレッサンドロ グラミーニ

 

 
左・ホルヘ ロレンソ/右・中野 真矢

 
左・マックス ビアッジ/右・坂田 和人

 
右・ティエリー ヴァン デン ボッシュ/左・イヴァン ラッザリーニ

 
RS同士のドッグファイト 左・原田 哲也とロリス カピロッシ/右・原田 哲 也とバレンティーノ ロッシ

 

 

 
#31を駆る原田 哲也

 我が愛
は2000年型APRILIA RS50 TETSUYA HARADA REPLICA
 (RS50は50ccながら250ccクラスの車体を持つ、真のフルサイズ原付レーサーレプカである。特にシート高は810mmと国産250ccレーサーレプリカよりも遙に高く、足付は原付とは思えない程に悪い!が、その分国産のーサーレ プリカ以上にレーサーに近いレプリカであり、その車体構成から更に上の余裕と機動性を兼ね備えていると言える。上の画像、原田 哲也が駆る#31の車両が我が愛機の元となった)
 インプレッションレポートはこち



★5:MOTO GUZZI(モト グッツィ)
 MOTO GUZZIは1921年3月15日に、イタリアはロンバルディア州レッコ県にあるコモ湖畔村、マンデッロ・デル・ラーリオで設立された。2011年をもって創業90周年を迎え、欧州でもGILERAに次ぐ屈指の老舗二輪車メーカーである。共同経営者、エンジニアのルロ・グッツィと、ジェノバの海運会社のオーナーの息子であるジョルジョ・パ ローディ。二人は第一次世界大戦時に、イタリア空軍で知り合った元戦友だった。エンブレンムの翼を広げた鷲のマークはイタリア空軍を象徴するの (AQUILA = アクイラ)であり、二人の戦友で経営に参加する予定であったレーシングライダー、ジョヴァンニ・ラヴェッリが、WWT終了直後に航空機事故で亡く なってしまったことを悼む意味を込めてデザインしたものである

MOTO GUZZI初の市販車二輪 1921年製 MOTO GUZZI NORMALE
 創業直後からレース活動に取り組み、1921年のタルガ・フローリオでの優勝を皮切りに、1957年までにWGPタイトル14回、マン島TT優勝11回数えている。特に250ccクラスはマン島TT1937年大会で、初めてイギス製以外のマシンでの、またイギリス人以外のレーサー(オモボノ・テン ニ)の優勝もした。しかし、1957年GILERAと同じくレース活動から完全撤退する。MOTO GUZZIの場合は、レース活動資金の高騰による疲弊もあり撤退を受け入れたと言われている。
 創設者のカルロ・グッツィが1964年この世を去り、パローディ家が破産した事で財政難に陥り、1966年管財人の手に渡る。1967年、SEIMMが
営委任を受ける(イタリア政府管理下)。ここで最初は収益見込みの高いモペッや125ccクラスに車種を集約されるが、その後に1963年から開発をけ、現在MOTO GUZZIのトレードマークにもなった縦置90度Vツインエンジンの祖となるV7が当たり、経営が軌道に乗って来た1973年、アレッサンドロ・デ・トマ ソが買収し、DE TOMASO傘下に入る。1988年、既にDE TOMASOが取得していたBENELLIと合弁しGUZZI BENELLI MOTO S.p.Aとなるが、翌1989年BENELLIブランドはセルチ社に売却しMOTO GUZZI S.p.Aになる。そして2000年APRILIAの傘下へ入り、更に2004年APRILIAがPIAGGIO傘下となったため、現在はPIAGGIOブランの一つとなっいる。

1937年オモボノ テンニとVツイン・ビチリンドリカ

 
1957年レース撤退直前、最後のWGPレーシング・マシーン 500V8

 我が愛機は1989年型
MOTO GUZZI V40 TARGA
 (V40 TARGAは縦置V型2気筒と言うバイクでは珍しいエンジン配置で、且つ昔ながらのOHVバルブ駆動とシャフトドライブ機構を持つ、
ポーツ・ツアラーバイクである。本は400ccバイクだが、生産性やストの関係でかシリーズモデルのV35 IMOLAU(350cc)やV50 MONZAU(500cc)、V65 LARIO(650cc)、V75 TARGA(750cc)とエンジン周り以外はほぼ共通の車体であり、車検証の装備重量は300kgに達し(国産750cc並み)、ビッグバイクと見た目も重さ的も変わらない巨漢を誇る)
 インプレッションレポートはこち




★6:VOLVO (ボルボ)
 VOLVOは1927年、アッサール・ガブリエルソンとグスタ・ラーソンの人によりスウェーデンのヨーテボリにて創業された。この二人はVOLVO創業の前にSKFと言うボール・ベアリングメーカーに務していたのだが、二人SKFに在籍ていた当時は特に接点も無く、後にグスタフ・ラーソンは他社へってしまう。
 1923年アッサール・ガブリエルソンは自動車工業に興味を持ち、スウェーデンで自動車の生産をしたいと思い立つ。そこで同じSKFで働いていた事があ
り、且つイギリスで自動車設計をしていた経験を持つグスタフ・ーソンに白羽の矢を立て、誘う事にする。当時スウェーデンには産車が無く、国内の道路事は悪く、整備の行届いていない路面を他国生産車で走るのは困難を伴うものだっ。そこで、スウェーデンに適した車を自国で作りたいと言うアッール・ガブリエル ソンにグスタフ・ラーソンが感銘を受け、自動車の開発が始まった。その際、「車は人間によって運転されるもの。だからこそ、VOLVOは常に安全な車でなればならない」と基本理念を打ち出した。
 
VOLVO初の量産車 左・VOLVO ÖV4/右・VOLVO PV4
 その後、この理念から世界初の三点式シートベルトの開発。その特許の無償開放。衝突安全ボディーの開発。前後にヘッドレスト装着。チャイルドシート開発、衝撃吸収ステアリングシステム、アバッグの全車装備、側面衝撃吸収システム、サイドエアバッグ装備、追突止自動ブレーキシステム等、世界の自動車メーカーに先駆けて次々と安全装備を発している。また、他社とは違うをモットーとしてスカンジナビアンデザイを追求し、VOLVO独特なデザインの車を発表し続けると共に、常に環境に配した装備(ラムダセンサー付三元触媒エグゾーストシステムやスモッグイーター、バイフューエルエンジン等)も世界に先駆けて開発して来ている。
 またVOLVOはレースに出る事で、自社の宣伝を積極的に行っている。1965年東アフリカ・サファリラリーにて、後年ラリーの神様と呼ばれたジョギン
ダ・シンの駆るPV544が優勝。1970年代にはWRC・世界ラリーカー選権に142Sで参戦。1980年代は ETC・ヨーロッパツーリングカー選手権に240 TURBOで参戦。1985、1986年と2年連続チャンピオンになり、『フライング・ブリック』・『空 飛ぶレンガ』と呼ばれた。どう見ても速そうに見え無い形の車が、当時最強クラスの各社スポーツカーをブチ抜く様からこの様なあだ名を付けられたのだ。因み同85・86年、日本で開催されたインターTECへ遠征して来て日本勢(鈴木久里:スカイラインRS TURBO、中島悟:シビックSi、長坂尚樹:ハルトゲBMW 635CSi、中谷明彦:スタリオンTURBO、土屋圭一:AE86レビン等当時の国内トップレーサーが参戦していた)や同じく海外からの遠征組 (BMW 635CSi、HOLDEN COMMODOER VK、MERCEDES-BENZ 190E 2.3-16、JAGUAR XJS)を敵に回し、ブッチギリの速さ (85年は1-2フィニッシュで3位を7週遅れ、86年は2台エントリーの内1台リタイヤするも2位を3周遅れにしている。)で優しているし、更には86年ドイツのDTMでもチャンピオンになっている。1994年からBTCC・イギリスツーリングカー選手権に出場。最初は850 ESTATEで参戦する。850 ESTATEは、史上初のワゴン車タイプのレーシングカーになる。が、流石に無理があったの最高位は3位に終わり(それでも3位に入るのは凄い!)、翌1995年に車種850 SEDANに変更。SEDANに変えると、途端に優勝もしている。1997年から車種をS40に変更。1998年にはドライバーズタイトルを取る。BTCCに参戦して、850とS40で通算21勝を上げた。この後くレースかられていたVOLVOだが、2010年WTCC・世界ツーリングー選手にC30でスポット参戦。2011年より本格的に参戦を果たし。ここでもC30と言うワゴン車タイプを導入したり、他社に先けてレース燃料に環境配の為バイオ燃料を使用する等先見の明(2011年WTCCからチームがバイオ燃料を採用した)を見せている。
 因みにメーカー名のVOLVOとは、ラテン語で「私は回る」と言う意味である。創業者二人が在籍したボール・ベアリングメーカーのSKFにちなんでお
り、エ ンブレムはベアリング(♂)と鉄の象徴であるハーフクロス(半斜線)を現している。

1965年東アフリカ・サファリラリー優勝車 VOLVO PV544

 
左・1973年WRC VOLVO 142S/右・1985年ETC VOLVO 240 TURBO

  
左・1986年ETC VOLVO 240 TURBO/右・FORD SIERRA XR4 TIとサイドバイサイドで抜きに掛かるVOLVO 240 TURBO 後方にBMW 635 CSiとFORD SIERRA XR4 TI

 
左・1994年BTCC VOLVO 850 ESTATE/右・1996年BTCC VOLVO 850 SEDAN

 
左・1999年BTCC VOLVO S40/右・2011年WTCC VOLVO C30


  我が愛機は1998年型VOLVO 940 TACK ESTATE
 (我がTACK ESTATEは940が正規生産終了後に作られた最終限定車であると同時に、今の所VOLVO社で最も最後に作られた後輪駆動車である。また車体前部は前駆動でない上に縦置エンジンのためロントノーズが長く、またオーバーングも長い。そしてリアのラゲッジペースが広く長く、フロントと同じオーバーハグも長いので、真横から昨今の車とべてみると車体がとても長く見え)
 インプレッションレポートはこち



 
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